◆プロフィール◆

1979年大阪生まれの40。神戸商科大学(現:兵庫県立大学)卒業。一児(11歳)の父であり、両親も健在。2002年、新卒一期生として現在のエン・ジャパン株式会社に入社。2015年のはじめ、ステージ4の胆管がんであると告知される。それから約1年後、がんになったパパやママのためのコミュニティサービス「キャンサーペアレンツ」を2016年4月に立ち上げる。現在も抗がん剤による治療を続けながら、仕事と並行して、精力的にこの活動を続けている。

 

実を言うと自分に自信がないから、小さい組織を選んだ

—まずは就職活動の話をお聞きしたいです。新卒一期生として、何を魅力に感じて当時のエン・ジャパンに決めたのでしょうか?

とにかく「小さい会社」、「社長が近くにいる会社」に行きたいと思って会社を探して、たまたま見つけたのがエン・ジャパンでした。基本的に、会社説明会って福利厚生とかキャリアプランとか、そんな話がメインじゃない?だけどエン・ジャパンって、当時社長の越智さんがセミナーに出てきて、「仕事とは、9割しんどいもんや。」とか、そんな話をするわけです。就活生の僕からしたら「ナニコレ、説明会??」ってなるんだけど、なぜか、当時すっと腹落ちする感覚がありました。

大学はこじんまりとした国公立大学で、かなり保守的な大学。その中で僕は、ただの小さい会社に行く変な奴だったと思います。

 

—そもそも小さな組織に対する気持ちが強かった、ということですか?

そう、どこかで「自分に自信がない」って気持ちと、もう一方で「やるからには一番になりたい」って気持ちがあって。

例えば、僕は小学校から大学までずっとサッカーをしてきたんだけど、大学を選ぶ時もサッカーが軸にあった。真剣にサッカーをやりたいし、レギュラーとしてプレーしたい。だから推薦入学ばかりの超一流が揃っているような私大ではレギュラー獲得が厳しい、でもお遊びのサークルでサッカーをしたくはない。ちょうど良い規模の大学が、自分の母校でした。

本当に自信がある人なら、周りにどんな人がいようが何人いようが関係なく、一番取れると思ってるはずです。僕は、まずは10人の中でトップを取ってみよう。そんな考え方を持っていたんですよね。それが就職先選びでも変わりませんでした。

両親はどっちも学校の先生だから、安定志向の考えが強く、小さい会社に行くことには猛反対されたし、息子は何をする会社かも知らずに選んでいるから、すごくショックを受けてた。それでも断固として行くと言ってたから、最後は頑張れって応援してくれました。

 

「紙からネット」「リーマンショック」、組織の胎動を感じて働く。

そうして、2002年に従業員数50人くらいのエン・ジャパンに入社して、仕事に没頭しました。

当時のエンは、今ほど知名度はありません。、、インターネットがやっと出てきたくらいの時に、エン・ジャパンはネット媒体で勝負していました。知名度がある競合他社がまだ、就職情報誌を提案している時だったので、「エン・ジャパン?何の会社ですか??」と言われるのが当たり前。営業活動はかなり苦労しました。

入社して2年が経った2004年くらいに、だいぶネットの追い風が吹いてきて。それから2008年までに右肩上がりで一気に会社も成長しました。毎年売上が倍々で増えていって。当然、従業員の数も増えて2002年には50人くらいだったのが、2008年には1000人を超えるくらいになっていました。

 

—50人から1000人ですか。

そう、僕自身も4年目に東京に来て、いきなり30人の部下を持つことになったりもして。いきなり組織のマネジメントしなさいと言われて、ひいひい言いながらもなんとか喰らいついて目標を達成していたような時期でした。

そんな中、2008年にリーマンショックが起きました。人材業界って、不況の影響を大きく受けるので、エンも相当の打撃を受けましたね。

実はその時の教訓があって。うちの会社も『エン転職』を中心とした求人広告の一本足打法じゃなくて、ちゃんとポートフォリオ作っていこうと。そのために新規事業や他社との協業を積極的にやっていくことになりました。

僕自身も2009年にエン・ジャパンと大手通信会社との合弁会社に出向して、そこでもまたがむしゃらに頑張りました。。でも2011年の震災の時、合弁会社が採用をストップして、解散することになって。各自が元の会社に戻ることになりました。

けれど僕は、既存事業ではなくて新規事業をやりたいとお願いをして、エンワールド・ジャパンという人材紹介会社に行くことになりました。エンワールド・ジャパンは、日本にある外資企業に対して人材紹介を行うような会社です。僕は日本企業向けにグローバル人材を紹介する部隊の立ち上げメンバーとして出向しました。

それが、2012年5月のこと。32歳の時。そこから、3年間働いて、2015年。僕自身も英語を必死になって勉強して、だんだんと成果も目に見えるような形で上がってきて、会社も立ち上げから拡大のフェーズに入っているような時期でした。

急に体調を崩して検査してみたら、『ステージ4のがんです』って診断されました。

 

『がん』、得体の知れないものへの恐怖。

突然告知されて「俺、死ぬ」って思いました。がんに対する情報や予備知識も全くない状態だから、『がん=死』だと漠然と感じたのが正直なところ。だから、冷静に今後の仕事や収入、家族について心配するような余裕は正直ありませんでした。

がんについて、だんだんと情報を収集するようになって。どんな病気なのか、自分が罹った部位にはどんな機能があるのか、どんな風に病気が進行していくのかとか、色々調べるわけです。がんについて知っていくのと同時に、そのまま生活をしていて「意外に生活とか、出来るやん。今すぐ死ぬわけではないんや」と思った時に、やっと仕事や家族のこととか心配する気持ちが出てきました。

時系列で言うと、「怖い種類が変化する」という感じ。漠然と死ぬことが怖いと思ったのが最初。次に病気のことを情報でも自分の体でもわかってくると、抗がん剤とか病気の今後の進行とか、生きる上での具体的な怖さに変わります。

 

—生きる上での具体的な怖さですか?

はい。まず、しんどかったことは『リアルな情報がないこと』でした。がんになる以前は、がむしゃらに働いていたタイプだったから、「会社を辞める」という選択肢を思いつかなかったんですよね。

「会社に病名は伝えるべきか?」

「過度に心配されないか?」

「どんなペースで働くことができるのか?」

たくさんの疑問があったんですが、がん患者が生きる為の情報ってないんですよね。どうすればいいか、本当にわからなかった。

 

『キャンサーペアレンツ』が生まれるまで。

—子どもを持つがん患者たちによるSNS『キャンサーペアレンツ』。どういった経緯で形になったのか、お聞きしてもいいでしょうか?

実際に自分が困っていたこと、それを解決するための方法を形にしました。がん患者ってすごく、特別な境遇の人たちなんですよね。だから、患者同士の悩みも近いんじゃないかと思って。さっき言ったような悩み事にも、ベストプラクティスがあるんじゃないかと思ったんです。

そこに専門的な知識とかは必要なくて、瞬間瞬間でどう判断したのかとか、どんな解決策があったのかとかが、わかればいいだけの話で。その解決策が一つなのか二つなのか、あるいは10個なのか、その数によって、選択肢を選んだ人の納得感は変わると考えました。

例えば、僕が職場の誰にどんな風に言うのか。Aさんが「上司に病名は言わずに、〜〜から復帰できます。」って言う。Bさんは「僕は人事部長に病名も伝えて、結果○○になりました。」と。その選択肢を複数知った上で、自分が選べた方が、その行動の納得感が異なるはずです。

この仕組みを形にしたら、たまたまこうなったと言う感じです。

キャンサーペアレンツ(https://cancer-parents.com/

 

—人の声がカタチになる。SNSは確かにイメージできます。

実はがん患者の方が書いているブログみたいなものはたくさんあって。でもそれらのほとんどが一つの病気について詳しく書いているものが多い。ブログを読むことで、肺がんとかの一つの病気については多く知ることはできる。でもそこに仕事のこととか、お金のこと、家族のこととかは、書かれてなくて。

僕は、胆管がんのことが知りたいんじゃなくて胆管がんの人を取り巻く環境が知りたいんだって、その時に思ったのです。

その人が何歳で、どんな仕事をしていて、奥さんは何歳で、子どもがいるとかいないとか。そういったことが知りたいのに、全然書かれていない。そこに情報の出し手と受け手の違いがあるなと思って。そういう情報をやり取りする上では、比較的年齢が近いとかステージ(病気の進行具合)が近い方が、より密度の濃い情報のやり取りができるんじゃないかと。

 

経済的な合理性と道徳性、その両立こそがビジネス。

—『キャンサーペアレンツ』を作るにあたり、絶対に譲れないポイントとして、きちんとお金が回る仕組みを作りたいとお聞きしました。なぜ、そんなにも強いこだわりを持っているのか気になります。

絶対にそれは必要なことだと思っています。

良いことだけをしていても、意味がない。経済的な合理性と社会的な道徳、この二つを担保していかないと結局、事業として継続していくことができないから。ビジネスと道徳はどっちが先とかじゃなくて、儲けることで社会的な価値のあることを実現し、継続したいと思いました。

「がんという病気をビジネスにするなんて」とか「事業として成立させるなんて無理だ」とか周りに言われることもあるんですが、実際、今まで同じことをしてきている前例がない。

「収益」だけではなく、「人」の面でも、ちゃんと回る仕組みは大事。今は僕がいて、色んな活動をしているから何とか成り立っているような側面があります。だとしたら、仮に僕がいなくなって、それでこのサービスがなくなってしまうなんてもったいないですよね。

嬉しいことに『キャンサーペアレンツ』を立ち上げてから、プロモーションとかを全くせずに、1年くらいで会員数も1000人を超えて。立ち上げてから4年がたった現在では、3,500名を超えました。運営メンバーも少しずつ増えてますし、今もずっと募集しています。

 

アクションを取り続けろ。

—会社員として働きながら、自分の使命ともいえる仕事を全うしている西口さん、そんな西口さんから今、大学生に伝えたいことをお聞きしたいです。

自分のやりたい事探しにこだわり過ぎず、打算的にも考え過ぎず、「目の前のこと」をポジティブに捉え、チャンスを逃さないでほしいと思います。

目標を掲げる事は大事です。でも、その目標から打算的に考えて、目の前のことを「それはキャリアに繋がらないので、やりません」みたいな話はもったいないと思ったりします。そりゃ、仕事していればやりたくないこともあるんだけど、実際にそれをやってみるからこそ「やりたくないこと」を経験できて、その経験のお陰で、「やりたいこと」も実現できる実力の持ち主になったりすると思うのです。

「これチャンスかもしれん、いったろ」

そう思えるかどうかがとても大事なんだと思います。物事のポジティブなところを捉え続けることで、行動に移しやすくなると思いますし、行動する事でできる事も増え続けると思います。

—目の前のチャンスに気づき、アクションを取る。簡単に聞こえるようで、なかなか実際には難しいことですよね。

本当にそう。でもね、今のインターネットが発達している時代ってある意味で、チャンスだらけとも言えます。

ーなぜです?

「海彦、山彦の話」って話があります。

海に住んでいる海彦さんと山に住んでる山彦さんの話で、海彦さんは釣り竿一本で簡単に魚を釣ってしまう。それを山に住んでる山彦さんにあげたらすごく喜ばれるわけです。どこにでもいて、いとも簡単に釣れる魚なんですけどね。それに対して、山彦さんはいつでも取れるような山菜を海彦さんにあげたら、海彦さんも同じようにすごく喜ぶんです。

この話、つまりは「住む世界とか環境が変わると、ありがとうって言われることも変わるという事」。そこで、「所詮、俺なんて」って思って海彦さんがアクションを取らなければ、そこで永遠と接点は生まれない。ずっと「魚とり続けて、何がおもろいねん」って自分だけが思っていたとしても、そこで山彦さんと接することによって価値観が変わるんです。

一歩外に出てみたら、その経験とか知見とか考え方みたいなものを「うわ!すごい!」って思ってくれる人が絶対いるはずです。その人と出会うためには、行動し続け、何かを発信し続けることだと思うんです。

インターネットの時代って、それが可能になるということなんだと思います。

編集後記

『絶対に今、会いたい。』そんな気持ちを持って、ご連絡し実現したインタビューです。「本当にこの人はステージ4のがん患者なのか、、?」話を聞いていて、思わずそのことを忘れてしまうほど、ポジティブな言葉を語っていただきました。

昨今、「働き方改革」が世間でも盛んに叫ばれ、パラレルキャリア・社会起業・副業・リモートワークなど様々な方法によって自分らしい働き方を実現する人が増えてきています。その流れは、今後も確実に強まるでしょう。ただ、西口さんからの話を聞くとそれら新しい働き方は「あくまで手段」なのだと、痛感させられます。

本当に大事なのは、自分が社会に生み出したい新しい価値、そしてそのための熱量なのでしょう。西口さんは『キャンサーペアレンツ』を生み出し、ビジネスにすることに、確固たる使命感を持っています。本当に男前で、かっこいい。

僕自身、来年からいち社会人になる立場として、見習いたい姿勢や考え方をたくさん伝えていただきました。本当に貴重で、大切な時間でした。

 

インタビュー・撮影・文章構成:iroots intern生 kai