登壇者

小学生で海外、高校からインドや中国などで数々の修羅場をくぐってきた西本さん。就活では大手商社の内定を辞退し、その後いくつものビジネスを立ち上げながらも、多くの挫折と失敗も経験してきました。

30代で業界出版社である鎌倉新書に入社し、一部上場までの企業に成長させた牽引役、キーパーソンの一人として現在もご活躍されています。

なぜそのような選択をしてきたのか。成長するには何が必要なのか。社会での厳しい競争に生き残り、活躍し続けるための雑草魂とはどのようなものか。その真相に迫っていきます。 

 

TOPICS

・「世界を知らないと何もできない」-小学校で単身海外へ-
・「生きるということ」の本質的な意味を学ばせられたアジア諸国行脚
・制限がある中で戦うからこそ、面白いし成長する
・「失敗は成功の母」海外での数々のビジネス立ち上げを経て
・発展途上のブルーオーシャン市場を開拓したい-鎌倉新書との出会い-
・答えがない世界だからこそ面白い-学生へメッセージ-
・編集後記

 

――以下、西本氏

こんにちは鎌倉新書の西本と申します。よろしくお願いします。

「自分のキャリアを話して欲しい」ということなので、自分を創ってきた土台、ルーツのところをかいつまんでお話できればと思います。ただ、これまで雑草みたいな感じで生きてきたので、いわゆるきちんとした履歴書や経歴書のようなものは書きづらいんですよ(笑)。

なので、自分を変えた原体験、大きなターニングポイントを軸にしてお話ししたいと思います。 

 

「世界を知らないと何もできない」-小学校で単身海外へ-

 

ターニングポイントについて話す登壇者

 

幼少期の頃からお話すると、僕は八王子にある1万坪ほどの結構大きなお寺の長男坊として育ちました。

小さい時から、周りの人たちや檀家さんたちから「お前は坊主になるんだよな」と言われ続けていて、「なんで坊主にならなきゃいけないんだろう」って思いつつ、すごいプレッシャーを感じていました。

親父は家(庫裏)の中では「お父さん」なんですけど、壁一枚隔てた向こう、境内では「住職」なんですよね。僕も一歩外に出ると寺の長男坊としての振る舞いを余儀なくされましたし、知らないうちにそう意識づけられました。

それがなんか表と裏の顔というか、二つの人格の人格が形成されているようで、それにさいなまれました。 

 

西本家は僧侶の家系ではないのですが、喘息持ちの親父が「坊主になりたい」と出家した後、寺院の初代住職になったわけです。その親父が「これからの坊主は世界を知らなければならない。広い社会を知らなければ、いい坊主になれない」というようなことを言っていて、小学校4年生、5年生、6年生の時に一人で海外に行かされました。 

僕が小学校の頃は海外旅行は高嶺の花で、親父自身も海外なんか一度も行ったことがなかったんですけど、4年生の時に中国、5年生はニュージーランド・オーストラリアの農場へ、6年生はカナダ・アメリカの現地学生とのサマーキャンプに放り込まれました。

僕が小学校4年生の時の中国はみんな人民服着て自転車乗っているような時代でしたが、「これからお前は坊主になるんだから世界を知れ」って言われてトラベル中国語ハンドブックを1冊渡され、訳も分からず飛行機に乗ったことを覚えています。 

 

人生って、自分がどういう原体験をしたかによってその後の価値観や方向性が大きく変わってくるものなんですよ。その僕にとっての原体験、ターニングポイントっていうのはいくつかあって、その一つ目は坊主にならなかったことなんです。 

親父がいい坊主になるためにと言って自分に投資した海外経験が仇となってしまった。3年連続で海外に行かされて、世界って広いんだな、色んな人がいるんだなということを知ってしまったんですよね。

「ここで坊主の道を決めるのはまずい」という意思が強くなり、結果家族や檀家さんの期待を見事に裏切って、僧侶になることを拒んだわけです。 

 

実は5歳年下の弟がいるんですが、弟は坊さんになることなど全く期待されていなかったのです。

ところが、その弟が小学校6年生の時に「僕お坊さんになりたい」と突然言い出して、寺中大騒ぎです。そのまま親父の意志を継いで出家し、今は立派な僧侶になっています。

それに対する負い目のようなものは僕の中にずっとあって、その分違うところで頑張らなきゃ、寺を支えなきゃと思うようになりました。

 

「生きるということ」の本質的な意味を学ばせられたアジア諸国行脚

熱心に聞く学生

 

もうひとつのターニングポイントは高校時代の17歳で訪問したインドです。

大学付属高校に通っていたので、そんなに勉強しなくても大学に行けたんですが、日本経済もバブルの絶頂期で社会が浮かれている時期でもあり、僕も遊んでばかりいました。

でも2年生を過ぎた頃に、「このままでいいのか」と思いはじめるようになりました。

そんな時にたまたま、著名な写真家であり小説家でもある藤原新也さんの写真集「メメントモリ」に出会い、衝撃を受けました。

 

当日のスライドターニングポイント

 

ここにあった「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」という言葉にガツンとやられました。「日本でこのままダラダラしていたらやばい」「インドに行けばなにかあるはずだ」という衝動に駆られてインド行きの資金を貯めはじめ、17歳の時にいざ勇んで単身インドに向かいました。 

 

ところが、インドに到着早々お金もパスポートもバックパックも持ち物全て失ってしまったんです。

電車で寝ていて、起きたら着ているもの以外全部なくなっていました。一瞬頭が真っ白になって「My passport!」って叫び続けて、他の人の荷物を漁ったり、掴みかかったりして車中大暴れしてしまったのですが、どこか途中駅で警察に引きずり降ろされて、なにがなんだか全くわからないまま気づいたら留置所でした。 

この話も当たり前に日本にいる人が聞いたら、意味わかんないと思うんですけど、唐突というか、その意味わからないことがおこるのがインドの面白さでもあるんですよ。 

 

その後、留置所から放り出されたものの、今いる所がどこかもわからないし、お金も持ち物も何もないから途方にくれました。でも、腹はどうしようもなくすくわけです。バザールでバナナやリンゴなどを盗んだりしながら、路上で牛や蚊に悩まされながら寝食していました。

その後、なんとか列車にしがみついて、デリーまで行ったんです。そこまで来れば一安心ですが、日本大使館でお金を借り、パスポートの再申請をし、母に電話して送金を依頼しました。

ただ、国際電話がえらい高い時代で2分くらいしか話せなかったと思います。「なにもかも盗まれて無一文になった。帰ったら返すから東京銀行の●●口座に至急送金タノム!」という感じです。母はえらい心配したと思います。

 

その後、旅券再発行まで時間がかかるので、西にある砂漠に行ったのですが、そこでラクダに一目惚れてしまったんですよね。親にせっかく送金してもらったお金でラクダを衝動買いしてしまい、航空チケット代がなくなってしまった。

その後も色々ありましたが、今日は旅の話をする場ではないので割愛しますが、帰国後はマラリアを発症して隔離され、連日連夜高熱にうなされた、出国時に65kgだった体重も帰国後は47kgになってました。 

当時の新聞掲載

※西本さんが学生時代新聞に連載していた「ノープロブレム」

 

でもこういう経験してしまうと、少しのことくらいでは動じなくなるんですよ。大概のことはたいしたことない、大丈夫だと。「生きること」の過酷さと素晴らしさ、ありがたさをインドは教えてくれました。僕の大恩人です。 

 

3つ目のターニングポイントは中国です。高校時代から「中国は旅ではだめだ。住んでみなきゃわからない」と思っていたんですけど、当時の中国はまだ天安門事件から5年くらいしか経っておらず、まだまだ貧しい時代です。

でも僕は中国、中国人の潜在力を強く感じており、「近い将来中国が世界の覇権を握る時代が来る」と信じていたので大学をしばらく休学して中国留学に踏み切りました。 

 

今、中国の地図を逆さまにしてみなさんにお伝えしているんですけど、僕はよく地図を逆にしてみるんですよ。物の見方や視点を変えることってすごく大事だと思っていますが、逆から見ることで新しい視点や発想が出てきたりするわけなんですよね。 

留学先は中国東北部の長春という、冬はマイナス30℃近くになるところに留学しました。それまで南国の旅が多かったので、今度はめちゃ寒いところの方が面白いんじゃないかというよく分からない理由ですね。 

 

その後もいろんなところに行きました。旅先で知り合ったドイツ人とベトナムをバイクで南北に駆け抜けた後、憧れのあのアンコールワットをどうしても見たくなって、国連軍のポルポト派残党狩りが行われている最中のカンボジアを目指しました。

「なんとかなるだろう」と国境まで行ったもののやはり許可おりなかったので、日本の歌歌ったり踊ったり、けん玉を入管前でやったり、永遠アピールし続けていたのですが、根負けしたのか、面白いなと思ってくれたのか「入ってOK」ということで入国が叶いました。こういうノリ大好きなんですよね。

当時は地雷原もまだ多く、治安が悪かったので闇市で安い銃も手にれて旅しました。決して明るく言えることではないのですが、軍人さんにしつこくネゴってワイロ渡してバズーカー打たせてもらったことは一生の思い出です。 

 

制限がある中で戦うからこそ、面白いし成長する

そうした旅行での経験を通じて感じたことがあります。それは、バックグラウンドもモノもなくなった時に、自分の身一つで何ができるかがすごく大事だということです。 

 

限られたリソースで何ができるかというのって社会人になるとすごく重要で、人って何かあると「これがないからできない」「人がいないからできない」「お金がないからできない」「上司が無能だからできない」って人のせいにしてできない理由を探しますけど、生きていくことって制限があって当たり前なんですよ。

むしろ制限があるから面白いんですよ。その限られた状況、制限の中でいかにして頭と身体つかって戦うかがめちゃくちゃ本質で、そういうことを実体験を通して学べたのは自分の血肉になっているような気がします。 

 

僕は結構「なんとかなる」と思って勢いで行動して、後で後悔することもあるんですけど、追いつめられると結局人は「なんとかする」んですよね。みなさんにお勧めしたいのが、自分から制約をつくって物事に取り組むことです。なかなかできないことですけど、あえて自分を追い込むんですよ。

そうすると、火事場の馬鹿力のようなものが働いて脳みそがぐるぐる回転して、結果望むものが手に入ったり、後から振り返ってすごく成長していたりするんですよね。 

 

あと余談ですけど、「可愛い子には旅をさせよ」っていう言葉がありますが、まさにその通りだと思います。僕には中学2年生と小学校6年生、3歳の3人の子供がいるんですけど、中2の子供がちょうど今ちょうどアイルランドに飛んでいて、現地で学校を探しています。

やっぱり親ってどうしたって自分の子供が可愛いので甘やかせたりしてしまうんですけど、早いうちに親元離れて、あえて一人で考えて動かなければならない環境や状況をつくってあげることって重要だと思っています。 

 

「失敗は成功の母」海外での数々のビジネス立ち上げを経て

交流会の登壇者

 

もう一つのターニングポイントとしては社会人スタートの時ですね。

大学4年になると周りが急に就活と言ってそわそわし始めて、すごい違和感があったんですよ。みんなして自己PRとか志望動機とか準備し始めるわけですけど、僕は就職する、つまり企業に勤めるということにすごく抵抗がありました。でも就活しないで偉そうなことは言えないと、かなり不純な動機で就活をするわけです。

幸い言語もいくつかできましたし、他の学生より話の引き出しは豊富だったので、面接ではあまり困りませんでした。 

 

結果、大手企業さんに内定をいくつかいただいたのですが、「1年目から自分を海外行かせてくれるなら入社する」という条件をオファーしたんです。するとどこも「まずは基礎と経験積んでから。海外勤務はそのあとから」と言われるわけです。当たり前ですよね。

今振り返るとたいした力もないくせにえらい生意気な学生だったと恥ずかしく思っていますが、結局そのまますべて内定をお断りしてしまうわけです。 

 

ここからが僕の運の尽きで、仲間たちが社会人を謳歌する中、悶々として食えない時代が続きました。天狗の鼻がへし折られてどんどん小さくなっていくわけです。

例えばですが、香港で仕事探そうと思っても、現地で数か国語喋れても別に珍しくもなんともないんです。

当時、山一證券が潰れて社長が涙を流した会見が象徴的でしたが、アジア金融危機やらなにやらで、アジアでも不況の嵐が吹き荒れ、日系企業も苦戦し始めていました。案件もなかなか決まらず、どうしたもんかとあてもなく彷徨いました。 

 

それからのことを細かく言えばキリがないですが、お金のタネはどこにあるか、ビジネス化できることはないか…と色々なことに手を出しました。もちろん失敗続きですね。

それでも諦めずに手数も打って色々トライしていましたが、はっきり言って職務経歴書に書けるような内容ではないです。 

 

インターネットはダイヤルアップで繋ぐナローバンドの時代でしたが、そこそこ詳しかったのでWEBサイト制作なんかもしていました。繊維製品や石材などを海外から仕入れて卸業で少しは稼げるようになって、ある程度安定した収益を上げ始めたのは社会に出て5年過ぎたくらいの時です。

 

その後、インターネット領域に踏み出してBtoBのネットソリューションなどを手掛けたものの鳴かず飛ばずだったのですが、その技術を応用してあるユーザーマッチングサービスをはじめました。

そこでのお話しは割愛しますが、そこで得たWEBビジネス、ユーザー洞察、人の輝かせ方などの経験と蓄積、学びの数々が後にジョインする鎌倉新書で大きく生きることになりました。

 

また、国内のいくつものモスクにしげく通った時期もありましたが、在日ムスリムの方たちの課題をヒアリングしながら、イスラムビジネスを仕掛けた時期もありました。 

たいがいのビジネスはそううまくいかないんですが、いくつも手数を打ち続けながら前に前にピボットしながら進んでいくことで、カツンと金鉱に当たることがあるわけです。新規事業なんていうものはもう死屍累々で、100のタネ撒いたら10の芽が出て、そこから3つ蕾をなせばいい方で、花まで咲くのは1つあるかないかみたいな世界です。

重要なのは、手を変え品を変えながらも諦めずに常に行動し続けることだと思っています。 

 

そういうわけで社会人スタートに大きくつまずいた20代前半は相当悶々としていたわけです。

金の切れ目は縁の切れ目じゃないですけど、大学1年から付き合っていた現在の妻はヘッドハンティングされながら順調にキャリアを重ねていましたが、「あなたは現実をみているのか?」と何度も危機を迎えましたね。

 

10代20代の若いうちに貪欲に前へ進んできた人間はやはり強いです。「失敗は成功の母」とよく言いますが、もちろん失敗成功には時の運もあります。

でも、いい失敗をしっかり経験してきた人間は失敗を恐れなくなります。中途半端ではなく。やるならとことんやってみることが大切です。 

 

発展途上のブルーオーシャン市場を開拓したい-鎌倉新書との出会い-

ターニングポイントを語る登壇者

 

現在勤務している鎌倉新書との出会いは30代前半のときでした。いろんな事業を立ち上げてきて「次何やろうかなー」と考えていたんですけど、供養・エンディング業界はまだまだ旧態依然としていて既成概念が強く、市場に対してもブラックボックス化していました。

僕は寺院の家の生まれでもあるのでその領域は触れたくないアンタッチャブルという意識が強くありましたが、同時に業界とユーザーにずれというか歪みがあるな..という感覚を常にもっていました。

 

そんな時、供養・エンディング業界で仏具大辞典とか業界紙を刊行している鎌倉新書という出版社が目に留まりました。たまたま代表の講演を聴く機会があってさらにピンときて、そのまますぐ鎌倉新書の「仏事」という業界紙の定期購読をはじめました。 

僕がビジネス的にイケるなと思ったのは供養・エンディング領域におけるプラットフォーム、マッチングサイトで、当時はグルメ領域は食べログやぐるなび。リクルートさんなら就職でリクナビ、結婚式はゼクシィ、住宅ではHOMESとかそういう領域でマッチングサイトはできていたんですけれども、供養・エンディングの領域でサイトを展開している強いプレイヤーはおらず、空いてたんですよ。 

 

そこで供養・エンディング業界のいくつかの業者さんにアポとりしたり、提案しに行きはじめたんですけども、「は?インターネット?」みたいな感じで、たいがい門前払いで全然社長さんまで辿り着けないんですよね(笑)。

やはり想像以上にこの業界古いなー、悔しいなーと思っていたところで鎌倉新書に出会ったんです。 

 

当時の鎌倉新書の事業は出版と、紙の販促ツールとかコンサルが事業の軸で年商1億ちょいくらいだったかと思いますが、長年業者さんに取材や販売をしていた繋がりがあり、たいがいの業界の会社さんは知ってるんですよ。出版社なのでコンテンツも豊富にありますし。

あとは代表の清水に会いに行って「エンディング領域における、WEBのプラットフォームビジネスで市場獲ろう。絶対勝てる」的なことを言って激しく売り込みました。 

 

首根っこを押えて自分の子分にしたがるような経営者や、事業がちょっと儲かると金が目的化してすぐ車や女や家などの私利私欲資産にしてしまうようなオーナー社長にこれまでうんざりしており、そういう人とは二度と事業やらない、組まないと決めていたところがありましたが、その点清水の自由で柔軟な発想と先を見通す力、フェアな姿勢は魅力的で決め手となりました。

清水から「西本さんには別会社としてジョイントして参画してもらうのがいいかな?」という言葉もいただいたのですが、直観的に鎌倉新書の内にガッツリ入り込まないと成功できないと思いましたし、鎌倉新書の既存メンバーにまず自分という人間を信用してもらわなければ、会社の価値である業界ネットワークやコンテンツを利用することもままなりません。

社員規模は当時15人いたかいないかくらいで、大半が編集や執筆などの事業に携わっている方でしたが、僕はもう嬉々として、一兵卒としてジョインさせてもらいました。 

 

入社して何をやったかと言うと、ずっと辞めていたタバコを吸い始めました。メンバーに喫煙者が多かったので、早く仲良くなるためにですね(笑) 

それから、いきなりサイト改修に取り掛からずに、じっくり社内外を観察し俯瞰しました。その中で、お墓の情報サイトが半ば放置されていたので、それ僕がもーらい!という感じでそこから手を付けたのですが、0120のお客様ダイヤルをエイヤ!の勢いでつけてみたところ、困ったことに電話がちらほら鳴り始めるんですね。

お墓の知識なんかほとんどないくせに、最初ははったり半分でかなり適当です。週末も自分の携帯電話に転送していたのですが、妻に「またお墓?!もううんざり…」とか言われながら電話をとってました。

子供のウンチ交換をしながら紙とペン持って電話対応していたのも一度や二度ではありません。「そんなことも知らないのか?!」とか電話口で最初はよく怒られましたねー。 

が、こういう積み重ねが後々事業にプラスに効いてくるんですよ。人がやりたがらないことを率先してやる、面倒くさいことをあえてやる、事業成功の鉄則です。 

 

お墓の情報サイトは他にもいくつもありましたが、電話は人ありきの労働集約的業務で、収益につながらない四方山相談も多い。また相談には知識も必要だし、面倒だから手をつけたがらないんです。

ただ、電話の向こうの方からの声は宝の山です。机上の空論とかよく言いますが、はっきり言ってデスクや会議室には何もありません。僕からみたら受電をやらない理由がありません。 

ほぼ一人でお客様からの電話を片っ端からとって問題と課題を抽出し、ギリギリまで我慢してから表のWEBサイト改修と裏の管理ツール設計に取り掛かりましたが、最初から感覚でリニューアルすると大体失敗します。

営業も全国の業者さんを洗い出してから優先順位づけ、こちらも一人で新規開拓と既存クライアントへはアメとムチでガンガンやってました。

 

そんなこんなで問い合わせを増やし、WEB事業の数値も伸びてくると、社内でも社外でもだんだん見方が変わってくるんです。味方も増えてくるんですね。

でも、人ってホント現金なもので「インターネットは振り込め詐欺みたいなもんだろ」って足蹴にしていた方が、うまくいってくると「インターネットはこれからのツールだからやらない奴は馬鹿だ」みたいなことを言い始めるんです。 

 

そうこうしているうちに臨界点を突き抜けると一気に眺めや空気が変わってきますが、そしたらまた次の課題と問題が山積みなので、そこをゴリゴリ改善していくわけですね。基本ビジネスの要諦、セオリーは同じですが、そのフェーズフェーズで戦い方は変わってきます。 

子供を職場にいつも連れて来てましたし、自宅にいてもサイトが気になっていつも見ていました。家庭も仕事も同一化してましたが、時には子供とバックパック背負って世界に出ることもありました。

子供には世界に出るってどういうことなのか、教室や机上では学べないものがたくさんあるってことを肌で感じて欲しかったので、なかなかハードな旅も含めて色々なところに行きましたよ。 

 

でも親が子供に教えることよりも、実は子供から教わることの方が多いんですよね。僕自身がすごく子供に鍛えられました。

大人って年とともにだんだん頭が固くなってきて、自分を守りたくなる生き物なんですよ。でも子供は素直でストレートなんですよね。子供はよく「なんで、なんで」って聞くじゃないですか。

上の2人の子供と毎朝一緒に電車に乗って通勤していたんですけど、 「なんでおじさんたち、みんなつまらそうなそうな顔してるの?お仕事楽しくないのかな?」って電車の中で大声で聞いてくるんですよ。 

結構本質突いた質問をストレートにされるとこちらはすごく困るわけです。

「うるさい、子供を黙らせろ!」と朝の通勤電車で怒鳴られたことも一度や二度ではないのですが、子供がそれを受けて「なんかおかしいよね。一番うるさい声出して迷惑かけたのはあのおじさんじゃないの」って真っ当なこと言うんですよ。

 

障害者の方が乗って来る時は「お父さん、あの人、足が曲がってるよ。なんで歩き方が変なの?」と静かな電車の中で大きな声で聞いてくるんです。「静かにしなさい」と言うのは簡単なんですけれども、その問いにどう対峙するのか、どう対応するのか、自分自身が親として、大人として問われているんだなと思いました。

でも、ホント子供との毎朝の通勤電車は何がおこるかわからないので、緊張して毎日吐きそうでした(笑)。 

 

そのうち「僕はなぜこの事業をやっているんだ」って考えるようになるんですよね。「なぜ、何のためにやるのか」って言うことですが、このWHYは企業が成長し続けていくためにもすごく重要です。

「何をやるのか」のWHATとか、「どうやるのか」のHOWをつい中心に考えがちになるんですけど、根幹となるのはやはりWHYです。Googleとか世界で素晴らしいサービスを提供している企業をみてみても、WHYがすごくしっかりしています。

そういう意味で、子供からのWHYの質問攻めは、自分の脳みそを活性化するのとものごとを言語化するのにすごく鍛えられました。 

 

鎌倉新書は今も堅調に成長しています。まだまだたくさんできることもありますし、事業アイデアもいろいろ浮かんできます。ただアイデアの時点ではまだほんの点に過ぎない。

その点を線につなげていく作業が必要なんですけど、それができると今度は線と線を繋げる面の作業が必要なんですよ。 

2008年に鎌倉新書に飛び込んで以来、カタチとしてはたまたま東証マザーズ、東証一部にまで上場することになったわけですが、十数人の出版社時代からWHYを突き詰め、フェーズに応じて戦い方を変えながら、ここまでやり切った経験は僕にとってすごく大きな財産です。

「なぜ何のために」をいつも問い続けてきたからこそ、ここまで大きくなれたのだと思います。それがなかったら、今の鎌倉新書も自分もなかったかもしれません。

 

答えがない世界だからこそ面白い-学生へメッセージ-

20年前に戻れたら

最後に僕が皆さんに言えることは、迷ったら厳しそうな方へ行った方がいいということです。若い時には特にです。リスクヘッジとか安全パイとか目先のことをこざかしく考えちゃダメです。

 

もちろんやっぱりめちゃくちゃ悩みますよね。

どの進路に進むのか、どの企業に行くのか悩むことって当たり前だと思うんですけれども、一旦決めたらとにかく前に進むことです。

簡単に行くわけありませんし、僕も失敗をたくさんしているんですけど、失敗したって命とられるわけではないと思うんですよ。今ある大きな企業だっていつ潰れるかわからないし、どうなるかなんて誰にもわからない。 

 

でも気力体力があるうちは、迷ったらできるだけ険しく、難しそうな道に行くといいと思います。なぜなら、難しい道にいくと失敗する確率があがるからです。若いうちに失敗をたくさん経験できると、年を重ねていくにつれ不思議と成功の確度がどんどん上がってくるんです。

何度も言いますが、中途半端な失敗とか、人のせいにできるやつはダメですよ。自分ががむしゃらにやり切ってダメだった失敗、そこからの学びはめちゃおいしいです。 

 

みなさんと同じくらいの年齢、20年前を振り返ってみて、僕が明らかに欠けていたのは人から学ぶ姿勢や謙虚さですね。「オレがオレが」の自我が強く、傲慢なところも多かったと思うのですが、そういうのはやっぱり社会に出てぶちのめされるんですよね。

自分ってホントたいしたことないな..と思うまで時間がかかりました。

僕はなまじっか高校から海外なんか行って特異な経験をしてしまったものだから、周りからはワーワー注目されるし、つまらないプライドや要らない虚栄心までくっ付いてきてしまったんですよね。 

 

それから、社会に出ると答えがない中で自分で考えて決断することがすごく重要です。10人いたら10人の考えがあるわけで、正解なんてないんですよ。でも答えがないからこそ面白いわけです。ちゃんと自分で考えて決断し、決めたら自信もって進む。

「キャリア」って言葉は僕はあまり好きではないんですが、キャリアって目の前のことに夢中になって進んで、ふと後ろを振り返ったところの足跡。そんなもんなんじゃないかなと思います。 

 

でも、もし20年前に戻れるとしたら、就職活動時に内定いただいたどこかの大手商社入っていたかなぁって思います(笑)。

ペーペーでほとんど仕事らしい仕事もできないのに、お金いただきながら、先輩からたくさん学べて、その企業の培った看板やバックグランドも利用できるなんて幸せなことです。もしそうしていたら、もっと近道ができていたかもしれないな…と思ったりすることはあります。

でも今だから言えることであって、もう一回人生やり直してもあの青二才の自分ではまた同じことをやってしまうんだろうな…と思います(笑)。過去をくよくよ後悔しても仕方がありませんが、これまでのさまざまな経験や出会い、出来事、失敗や成功があって、今の自分があるわけですね。 

 

irootsさん、自分のルーツってことですね。ルーツって根なんですけど、これって自分一人で作れるものではなくて、親兄弟、家族、友人、先輩後輩、周りのいろんな人から養分をもらいながらつくるもんなんです。

一人の人の出会いが人生を変えたりするのはよくあることですが、人は周りからいろいろな影響を受けながら成長する生き物です。一人では生きてはいけない。だから周りの人に対する感謝の気持ちは、いつなんどきでも絶対に忘れないでいて欲しいですね。 

 

---今後も鎌倉新書いるんですか? 

わかんないですね。来年で丸10年なんです。転職するかまた自分でゼロからやるか海外行ってしまうのかわからないですけど、10年の節目なのでそろそろいいかなーとも思ったりしています。

何かムズムズしてるんですけれども、自分の中で直感が高まったらパッと決断すると思います。 

 

---高校生の時、なんで中国がもっと成長してくると確信したんですか? 

時代によって国家も栄枯盛衰を繰り返すじゃないですか。近代の歴史において中国はたまたま不運なことが重なって、列強の食い物にされてしまったという時期があっただけで、元々の国のポテンシャルはすさまじい。

人口は多いし、歴史的にも英雄豪傑のオンパレードだし、中華文明はもう圧巻ですごいし、そういう国ってやっぱり強いんですよ。龍が少しばかり眠っていただけだと思っていました。 

大学の時に中国に留学し、帰国してからも中国人留学生たちのアルバイトの斡旋や保証人などをサポートをしてて、その予感はさらに強くなりました。 

 

「誇り高き強い国にしたい」「苦労したお父さんお母さんに孝行したい。幸せにしたい」ということを多くの中国人からいつも聞かされるわけですが、「自分のために」じゃないんです。

国のため、一族のため、両親のため、他者を幸せにしたいというエネルギーで動いている人はものすごい底力があるんです。戦後の日本人もきっとみなこんなことを言ってがむしゃらに生きてきたんだろな・・と感じつつ、それらのエネルギーを目の当たりにして、日本が経済規模やテクノロジー、学術レベル、世界プレゼンスにおいて中国に抜かれていく日は近いと感じました。 

 

---これから5年後10年後何をしていたいなってありますか? 

いつまでも同じ場所にいると自分に甘えや慣れも出てきてしまうのでよくないなと思っています。だからまだやったことのないことなど、もう一度別のことをするかもしれませんね。

40歳超えてくると、家庭や子供もいたりして環境を変えることってなかなか勇気いるのかもしれませんが、いつでもゼロリセットできる自分でありたいですね。

具体的に何をと言われるとまだぱっと出てこないですけど、課題や問題が多くて今はくすぶっているけど、突破口を見いだしたらブレイクしそうな企業とか、未踏領域が多いアフリカ市場とか面白そうですね。 

 

---色々な経験を振り返ってみて、どういう時に成長ってできるものだと思いますか? 

「悔しい」とか「悲しい」、「痛い」や「嬉しい」という気持ちを整理して、自分の中にまずしっかり内包することが大事だと思います。その上で「やりたい」「やる」を周りに意思表明してしまうと、後に引けなくなるのでストレッチがかかって、自分の次の成長につながっていくのかなって思います。

もちろんお酒飲みながら友達に感情をぶつけたり、不平不満を言って発散してしまうのもいいのですが、単に「すっきりした」で終わってしまうと「喉元過ぎれば…」で人ってすぐ忘れてしまうんですよね。

自分の中で一旦受け止めて、しっかり悔しがっておくと、臥薪嘗胆ではないですが、そのマインドを忘れずに進めるのかなと思います。

 

「編集後記」

イベントの集合写真

※西本暢様と学生達

「迷ったら難しい道へ」数々の修羅場をくぐってきた西本さんの言葉には重みと説得力を感じました。「みんながいいと言っているから」という理由でついつい安易に日々の選択をしてしまいがちですが、「なぜその選択をするのか」常に自分に問い続けることが大事だと思います。 

就職活動も、他人の勧めのままになんとなく従って就職してしまうと、入社後に違和感を感じた時に他人のせいにして逃げてしまうと思っています。自分で考え決断し、一度決めた道はとりあえずとことんやってみる。その結果失敗もするかもしれないが、それもまた成長に繋がるものとポジティブに考える。何事も常に「自分ごと」として捉え、日々を送っていくことで自分の人生に納得感を持って歩んでいきたいですね。 

 

―取材協力―

◎講演者:西本 暢氏
内戦中のカンボジア、ラクダを購入してのインド…、高校時代より国外を貪欲に歩き回る。

大学卒業後は中国事業を含め、多くの事業立ち上げを行い、IT系サービスでは2 年で年商12億円規模まで成長させる。2008年に株式会社鎌倉新書入社。同社が十数人の出版社から、東証一部上場のIT企業として現在の事業基盤をつくるまで、 常務取締役事業統括部長を経て、会社と事業の牽引役を担う。

現在、新卒・中途 すべての全社採用を管掌。並行して攻めの広報・PR、企業ブランディングを手掛ける。特に事業のゼロイチフェーズ、混沌とした舞台でのゲリラ戦に強み。

◎講演イベント:iroots shibuya
iroots shibuyaは、irootsが主催する学生と社会人の交流会。

それぞれが自分のルーツを語りあうことで、未来をより良くするためのきっかけにして欲しい。という想いで毎週火曜日@渋谷で開催されている。ゲスト講演30分+懇親会60分の2部構成にて実施中。

 

―この記事を書いた人―

小林 良輔
iroots インターン
早稲田大学商学部在学中。日系企業・タイ企業のビジネスマッチングサイト、子育てメディアのインターンを経てiroots編集部へ。irootsでは主に企画、マーケティング、記事作成を担当。趣味は散歩。